★『メヒコの帝王』カネックの魔豹なる記録達。

こんにちは。ここでは自分が子供の頃から大好きなルチャ・ドール カネックの偉大さや記録的な事をつづらせて頂きたいと思います。よろしくお願い申し上げます!

☆vs長州 力 シングル戦・生涯戦績

長州にとってカネックの存在は、藤波に噛みついてブレイクするきっかけになった(UWA世界王者になって自信をつけた)というだけでなく、外人を苦手としていた長州が珍しく噛み合う=スイングした稀少な外人レスラーになるんですよね。

83.5.13大宮大会の長州&カーンvsホーガン&カネックと84.7.8後楽園大会の長州vsカネックの映像を観てみればわかりますが、相手の技をあまり受けようとしない長州が一般的に格下になるカネックの技を結構なくらいに受けてるんですよね。

フライング・クロス・アタックとかダイビング・ボディ・アタックなどのストロング系とは相対するショーマン系に見られがちなルチャ系の技を受けてるところも特筆すべき点ではないでしょうか。

またカネックも長州に対して苦手意識が全くないのか、臆する事なくガンガンとアグレッシブに攻めてるんですよ。

とくに84年7月の後楽園でのシングル戦は3分ちょっとで敗れるのですが、プロレスの暗黙の了解としてそれほどの短時間で負けてあげる相手に試合の大方攻めさせてあげるのは当たり前…的な裏ルールが本当にあるのかもわかりませんが、それでもあの長州が短時間とはいえ試合の大方をガンガンに攻められるというのも本当に珍しいですよね。

…しかも外人相手に。

…しかも格下扱いのカネック相手に!

…しかもショーマン系に見られがちのルチャ系のレスラーに!

ブレイクする前のくすぶっていた長州ではなく、ブレイクした後の革命戦士となってからの長州ですからね。

また、長州は82年の5月~9月末までのメヒコ遠征してる期間の当時のプロレス月刊誌のインタビューにて「カネックは強い」と発言しているのですが、これは本当の本音なんだろうなぁと個人的に重く興味深く受け止めております。

2人のそれぞれの年齢がカネックが65歳で、長州が3つ上の68歳で同世代であり、体重は長州のほうが重いですが身長はカネックのほうが高く、体格差はないので本当なら藤波を絡めた3人でヘビー級になってからもずっと因縁抗争の輪に入れてくれてたらカネックの評価は大きく違ってたのでしょうね。。。

以下はvs長州とのシングル戦の生涯戦績になります。

ちなみに2人が最初に肌を合わせたのは1978年3月3日の高崎大会でのカネックの初来日第1戦であり、最後に肌を合わせたのが1988年10月14日の広島・府中大会でのタッグ戦になってます。



【★①】1978年3月7日(火)、更植市体育館
第5試合
▽30分1本勝負
◯カネック(体固め、9分5秒)長州力


【★②】1979年5月31日(木)、春日井市清水屋駐車場特設リング
第6試合
▽MSGシリーズ決勝リーグ戦、45分1本勝負
長州力(反則勝ち、8分14秒)カネック■


【★③】1979年12月19日、パラシオ・デ・ロス・デポルテス
▽UWA世界ヘビー級選手権試合?賞金マッチ?、時間無制限3本勝負
◯カネック(2-1)長州力
①長州(サソリ固め、7分17秒)カネック
②カネック(リフトアップからのシュミット式バックブリーカー➡️体固め、?分?秒)長州
③カネック(フライング・ボディ・アタック➡️体固め、?分?秒)長州
《☆マスク》アントニオ・マルティネス製、金旧ラメ、赤ふちどり、頬の模様=山羊を


【★④】1981年4月21日(火)、栃木・小山遊園地スケートセンター特設リング
第7試合
▽20分1本勝負
△カネック(両者リングアウト、7分38秒)長州力


【★⑤】1982年6月10日、メキシコ、アレナ・パチューカ
▽UWA世界ヘビー級選手権試合、時間無制限3本勝負
《王者》◯カネック(2-1)長州力●《挑戦者》
※カネックが王座防衛に成功。


【★⑥】1982年7月25日、メキシコ、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽UWA世界ヘビー級選手権試合、時間無制限3本勝負
《王者》△カネック(1-1)長州力△《挑戦者》
①カネック(体固め、?分?秒)長州
②長州(足4の字固め、?分?病気)カネック
③カネック(両者リングアウト、?分?秒)長州
※カネックが王座に成功。
《☆マスク》プエブラ製、銀旧ラメ、緑ふちどり、頬の模様=ククルカン(内向き)を着用。


【★⑦】1982年8月6日、メキシコ、アレナ・ネサワルコヨ
▽UWA世界ヘビー級選手権試合、時間無制限3本勝負
《挑戦者》◯長州力(2-1)カネック●《王者》
①カネック(サイド・バスター➡️体固め、7分20秒)長州
②長州(パイル・ドライバー➡️体固め、4分16秒)カネック
③長州(カネックのトペがレフェリーに誤爆➡️反則勝ち、5分47秒)カネック
※カネックが王座防御に失敗。長州が第7代新王者となる。
《☆マスク》プエブラ製、銀旧ラメ、紫メタリックふちどり、頬の模様=オンブレ・アギラ(外向き)を着用。


【★⑧】1982年9月26日、メキシコ、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽UWA世界ヘビー級選手権試合、時間無制限3本勝負
《挑戦者》◯カネック(2-1)長州力●《王者》
①長州(パイル・ドライバー➡️体固め、?分?秒)カネック
②カネック(サイド・バスター➡️体固め、?分?秒)長州
③カネック(ギロチン・ドロップ➡️体固め、?分?秒)長州 ※ダイビング・ボディ・アタックの説も有り
※カネックが1ヵ月半振りに王座奪回。第8代新王者となる。
《☆マスク》プエブラ製、赤旧ラメ、金ふちどり、頬の模様=ククルカン(内向き)を着用。
またこの試合からマスカラスの様なラメ仕様のロング・タイツを装着するようになりました。


【★⑨】1983年5月6日(金)、福岡スポーツセンター
第4試合
▽30分1本勝負
長州力(両者リングアウト、5分37秒)カネック△
《☆マスク》プエブラ製、赤旧ラメ、金ふちどり、頬の模様=山羊を着用。


【★⑩】1984年7月8日(日)、後楽園ホール
第8試合(セミファイナル)
▽45分1本勝負
長州力(カネックのフライング・ネックブリーカー・ドロップを交わしてリキ・ラリアット➡️体固め、3分42秒)カネック●
《☆マスク》プエブラ製・青
シルク、銀ふちどり、頬の模様=アギラを着用。

【★⑪】1984年8月6日、パキスタンペシャワール・スタジアム
第5試合
▽45分1本勝負
長州力(リキ・ラリアット➡️体固め、9分55秒)カネック●
《☆マスク》プエブラ製、緑ゴムラメ、赤ふちどり、頬の模様=ククルカン(外向き)を着用。


【※】1982年5月~7月の間にもう1試合実現しているらしいのですが(カネックの王座に長州が挑戦して敗れる)詳しく確認できませんでしたので、とりあえずノーカウントにさせて頂きます。

カネック 4勝4敗3分

☆ vsスタン・ハンセン生涯戦績②

【★④】1984年9月30日、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽UWA世界ヘビー級選手権、時間無制限3本勝負
《王者》□カネック(2-1)スタン・ハンセン■《挑戦者》
①ハンセン(ニー・ドロップ➡️リングアウト勝ち、5分44秒)カネック
②カネック(トペ・スイシーダ➡️リングアウト勝ち、5分5秒)ハンセン
③カネック(レフェリー暴行➡️反則勝ち、7分32秒)ハンセン
※2度目の王座防衛に成功。

《※》2度目のシングル対決。メヒコでは初シングル戦。

この試合のちょっと前に新日のシリーズに参戦してはJr.ヘビーのコブラ&小林邦昭にまで負けてるのに、メヒコでは反則ながらハンセンに勝利するという。。。

この試合を掲載した当時の週プロの身だしが、


「メヒコの英雄・カネック、地元じゃハンセンにも負けない!!」


…でしたね(笑)


ハンセンはハンセンでこの2ヵ月前に蔵前にて馬場に衝撃のピン・フォール負けを喫していた時期だったので、馬場に負けてカネックにも負けるなんて…と、ハンセンのイメージがややダウンしたという方も多々いらっしゃったのではないでしょうか。

ちなみにこの試合でラリアットを放ったというショットが掲載されてましたが、よく見ると左手が内側に写ってて、ラリアットじゃなくただのタックルかましてるだけだったことに腰砕けになった記憶があります。。。


【⑤】1985年1月27日、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽時間無制限3本勝負
◯カネック&ドス・カラス(2-0)スタン・ハンセン&ベビー・フェース●
①カネック(急所をロープに打ちつける➡️反則勝ち、8分39秒)ハンセン
②ドス(風車式バックブリーカー➡️体固め、5分8秒)フェース


《※》カネックが初めてリンピオに転向した試合でした。

前週にハンセンとシングルで対戦したドスを救出した流れでリンピオに転向という形でしたね。

この少し後に、この試合を収録した市販ビデオソフトを買ってもらいまして、メヒコでは人が変わったくらいに強いはずのカネックを楽しみにドキドキしていたところ…


「……日本でのカネックと何も変わりないじゃん」


と、驚愕しては…メヒコでは日本と一変して動きから技の豪快さも何もかもが違う猪木のような強いカリスマ的なカネックの姿をイメージしていたのですが、日本でダラダラした試合を展開するカネックのまんまなんですよ…


……あれっ?!


ま、少しは活き活きしていたのかもわかりませんが、既に鬼のようなカネック・マニアを自負していた自分には実に物足りなくひ弱に観えてしまったのでしょうかね。。。

後になってよくよく考えてみたところ、この試合はリンピオなわけですから、プロレスのセオリーとして正義のヒーローが悪役にやられてやられて…もうダメか…


…というところで反撃して最後は勝つ!!


というシチュエーションの試合なんだよなぁ…と理解してみたものの

やはりハンセンとのびっくりするような体格の差や力の差などで大きく見劣りするのは強烈な事実として受け止めるべき点でしょう。

当時のプロレス雑誌の片隅にもUWAが外交を盛んにして大成功したと言っても、体格の大きいアメリカ人相手にカネックをはじめとしたすべてのメキシカンが通用しない事がわかってしまった、とメヒコのマスコミの談話が掲載されてましたが、自分もその一言に限りなく同意します。

…悔しいけどもハンセンとホーガンと闘ってるカネックは本当に子供みたいに無力なことを実感してる次第です。

ま、カネックが強くないと思うのではなく…ホーガンはさておき、ハンセンはやっぱり本当に凄いんだなぁ 思ってる以上に本当に強かったんだなぁ と思うようにしている次第でした。

あと ハンセンはこの試合を含め カネックのトペを3回も受けてるんですが、

日韓のようなしこりがあってはメキシコを嫌ってすすんでメヒコには行かないアメリカ人選手が多いなか



ショー的要素が強いルチャ系の大技を受けるわ


全盛期に引退間際の馬場にフォール負けを献上するわ

セメントみたいな不穏試合をおこすこともないわ


ラリアットといういかにもプロレス的な技でプロレスの強さを世にアピールするわ


…ハンセンこそが真の『ミスター・プロレス』ですよねぇ。

☆ vsスタン・ハンセン生涯戦績①

【①】1979年6月6日(水)、名古屋・愛知県体育館
第8試合(セミファイナル)
▽MSGシリーズ決勝リーグ戦、45分1本勝負
◯スタン・ハンセン(ウェスタン・ラリアット➡️体固め、8分26秒)カネック●
《※》第2回MSG公式戦として実現した試合です。
当時の各プロレス月刊誌よりも、90年半ば後にゴング増刊号として発売された隠れ名勝負集の雑誌に掲載された記事のほうが凄く興味深く記載されてます。
この時期のカネックは身体が全体的に大きく、荒々しく、貪欲で、個人的にカネックが日本に来たなかで一番好きな時期です。


【②】1981年8月9日、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽時間無制限3本勝負
◯カネック&ペロ・アグアヨ(2-1)スタン・ハンセン&レイ・メンドーサ●
①カネック(リングアウト勝ち、8分43秒)メンドーサ
②ハンセン(ウェスタン・ラリアット➡️体固め、6分19秒)アグアヨ
③カネック組(反則勝ち、5分4秒) ハンセン
《※》ハンセンがはじめてメヒコを来襲した時の最終戦で実現した試合です。
パートナーはアグアヨですが、この時は本格的に組んでるわけではなく、突発的に組まれたインスタント・タッグチームって感じですね。
この試合でカネックがハンセンにトペを見舞ってるのですが、ハンセンがルチャ系の大技を受けるという構図を噛み締めてみると、ちょっと面白くないでしょうか。


【③】1981年12月5日(土)、福島市体育館
第7試合
▽MSGタッグ公式戦、45分1本勝負
◯スタン・ハンセン&ディック・マードック(ウェスタン・ラリアット➡️体固め、10分30秒)カネック&スペル・マキナ●
《※》秋に全日から新日に参戦するようになったマードックと組んだハンセンとの激突になります。
個人的な話しになりますが、この81年のクリスマス・プレゼントとして父親に初めてプロレス雑誌を買ってもらったんですよ。
何故か選んだのは月刊プロレスだったんですが、その月刊プロレスに白黒ながらこの試合が4ページにも渡って掲載されてまして、もう食い入るように読んでました。

「カネックという悪役っぽいマスクマン…なんか惹かれる…カッコいいな…」

なんて妙にドキドキドキドキしたりして。

で、マキナがとらえれたハンセンに真っ正直からド迫力のドロップ・キックを見舞ってるカネックのショットが本当にカッコ良くてカッコ良くて…

あのショットは好き嫌いだとか関係なく…間違いなく数少ないカネックの最高峰のベスト・ショットになります、はい。

☆vsアントニオ猪木 シングル戦・生涯戦績

【★①】1979年4月22日、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽NWFヘビー級選手権試合.時間無制限3本勝負
《王者》◯アントニオ猪木(2-0)カネック●《挑戦者》
①猪木(イス攻撃➡️反則勝ち、11分40秒)カネック
②猪木(ブレーン・バスター➡️体固め、7分50秒)カネック
※猪木が21度目の王座防衛に成功。

《※》前年の初来日時には藤波のライバル=Jr.ヘビー級選手だった事もあってか、タッグ戦を含め猪木とは未対決で終わっているので、このメヒコでのタイトルを賭けたシングル戦が2人の初対決になるんですね。

ストレートで負けさせている代償なのか、猪木が珍しい流血とショーマンっぽくて猪木が嫌いそうな技のトペ・スイシーダを受けてる2点は特筆すべき点でしょうね。


【★②】1979年6月4日(月)、松江市体育館
第7試合(セミファイナル)
▽MSGシリーズ決勝リーグ戦.45分1本勝負
アントニオ猪木(弓矢固め、4分39秒)カネック●

《※》MSG公式戦として実現した2度目のシングル戦はいわゆる秒殺でした。

しかもあの時代では既にフィニッシュ・ホールドとして成り立っていなかったボー・アンド・アローにて敗北だなんて。。。

ちなみにカネックは4月22日のトレオ大会&その直後の4月27日~6月5日のMSGシリーズの1 ヵ月半の期間に猪木のヘビー王座と藤波のJr.ヘビー王座に挑戦(2度)するという…なんとも摩訶不思議な記録を樹立させています。

あ、猪木のNWFヘビー級王座と藤波のWWF認定Jr.ヘビー級王座に挑戦した事があるのはカネックだけだそうですね。


【★③】1982年7月6日(火)、大阪府立体育会館
第9試合(メインイベント)
▽60分1本勝負
アントニオ猪木(卍固め、4分53秒)カネック●

《※》1年後に長年の壮大な計画であるIWGP大会が控え、その中南米代表としていち早く参加が決まっていたカネックをいいところを引き出す事なく秒殺するという燃える闘魂の狂おしい暴挙で有名な試合です…。

そうなった理由として猪木が重度の糖尿病にて本調子でなかったから早く終わらせたと定説になってますが、あの大会は生中継でしたので放送時間内に終わらせる目的もあったでしょうし(←改めて確認したところこの大阪大会は生中継ではなく録画中継でした。)、そもそも猪木はカネックに対してトレオでの初対決以外はすべてずっと酷い対応をしてましたからね。

それはカネックが初来日の際に最終戦をすっぽかした件で不快に思ってたでしょうし、マスクマン&メキシコの選手という事でショーマン・レスラーとして嫌ってたでしょうし、そもそも弟子のJr.ヘビーの藤波のライバルと対等に闘うわけにはいかなかったでしょうし、カネックの人気が同じタイプのマスカラスとは雲泥の差で集客力が無かったから嫌ってたでしょうし…

まぁ、どのタイミングでこのカードが組まれたとしてもすべて同じ内容&結果になってたでしょうね。


【★④】1983年5月23日(月)、岡山武道館
第9試合(メインイベント)
IWGP決勝リーグ戦、60分1本勝負
アントニオ猪木(バック・ドロップ➡️体固め、3分16秒)カネック●

《※》前年の試合と同様で、何も言うことが無いです。。。


【★⑤】1988年10月13日(木)、香川・丸亀市民体育館
第8試合
▽『闘魂復活七番勝負』番外戦.60分1本勝負
アントニオ猪木(卍固め、8分12秒)カネック●

《※》カネックが新日に参加した最後のシリーズになった時の試合で、坂口の代わりに実現した番外戦でしたね。

御大・猪木がいよいよ本格的に衰えてきた時期だったからなのか、試合時間が珍しく5分超るという。。。
でもやっぱり特筆すべき点はそれだけですね。。。

☆カネックの実現した夢のカード

さてさて カネックの対戦カードで身震いしたような実現したカードと言ったらどんなカードになりますでしょうか。


自分はやはり'85IWGPタッグ・リーグ戦にて実現した、12月7日、松坂大会での ブロディとの対戦や88年11月にメヒコ来襲したベイダーとの対戦が実現した時や90年代に入ってからではありますがオーエン・ハートとの対戦が実現した時なんかはかなり身震いしたものですが、


でも なんだかんだ言って一番とゾクゾクさせられたのは85年に実現した、それまでの盟友ペロ・アグアヨとの対戦になりますね。


84年にゴングが週刊誌となり 巻末カラーのメヒコ情報がレイアウトなどが凄く良くていつもいつも楽しみにしていたのですが、そこで『人気&実力を絡めたメヒコNo.1選手はアグアヨだ』的な事がよく記載されては 「 …アグアヨが1番て どういう事よ…? 」なんて思っては 段々と理解していったんですよ。

それでB型肝炎から復帰した84年11月~年末頃には世界のプロレスにてアグアヨの試合が何度もピックアップされては 相手に臆することなく強気で常に攻撃的なスタイル&表情などを目にしては「 カネックの敵じゃなく良かったわ…」 なんて思ってたのも束の間…


少女が瞬きする瞬間も無いくらいに、カネックがリンピオに転向しては、それまでの盟友アグアヨとの因縁の抗争が勃発しちゃったものだから それはもぉ ハラハラドキドキ おっかなドキドキ しまくったものです。


アグアヨにしてみればカネックは裏切り者、しかもアグアヨが来日してメヒコに居ない間にリンピオにひるがえったものだから 憎しみ倍増的な展開だったから「 カネック大丈夫かなぁ 」と心配していた 私 純な少年でした。


その週刊ゴングのメヒコ・コーナーにて伝えられる断片的な情報では、アグアヨにマスクを大きく破られ、流血させられ,急所蹴りにてダウンさせられるカネックの姿が掲載されるものだから

「 やっぱりメヒコ最強はアグアヨなのか?!」

「アグアヨに屈したら日本ではこれまで以上に酷い扱いをうける展開になるのでは…?!」


…などとカネックの身をあんじては本当におっかなくハラハラしていたものです。


あのアンドレにセメントっぽい事を仕掛けたアグアヨ &カネックは 本当に頼もしい我が最強のカネックの相棒でありました。。。


そのアグアヨも昨年にお亡くなりになりましたけども、他にもフィッシュマンやオロ、スコルピオなど幾多のルチャ・ドールの名優達が近年続々とお亡くなられてるわけですが…


カネック&ドス・カラスを筆頭にペロ・アグアヨ、フィッシュマン、エル・ソリタリオ、アニバル、ブラソ・デ・オロ&プラタ&エル・ブラソ、ビジャノⅢ&ビジャノス、ソラール、ウルトラマン、スペル・アストロ、クン・フー、カト・クン・リー、ブラックマン、コバルデ2号、ベビー・フェース、スコルピオ、ルイス・マリスカル、アブドーラ・タンバ、エル・シグノ、ネグロ・ナバーロ、エル・テハノ…などなどの輝かしいスペル・エストレージャ達が同じ時期に一同に集結した『UWA』という団体=存在は大のプロレス小僧だったオレの少年にとって本当に本当の夢の宝箱であり、随分とオレの少年の心を彩らせてくれた、誰にも譲りたくないオレのとっておきの必殺の宝物だったんですよね。。。



あんな浮き世離れしたくらいに夢みたいな世界を作り、与えてくれて…どうもありがとう…


フランシスコ・フローレスさん!!(泣)

☆カネックのvs藤波・生涯戦績

【vs藤波 辰巳 (~シングル戦編)】

【①】1977年8月11日、アレナ・トルーカ
▽賞金5000ペソ争奪戦、時間無制限3本勝負
□カネック(2-1)藤波辰巳
①藤波(原爆固め)
②カネック(メキシカン・ストレッチ)
③カネック(藤波がレフェリー暴行➡️反則勝ち)
《☆マスク》アントニオ・マルティネス製、金旧ラメ、赤ふちどり、頬の模様=無しを着用。


【②】1977年9月16日、アレナ・トルーカ
▽時間無制限3本勝負
□カネック(2-1)藤波辰巳
①藤波(体固め)
②カネック(回転押さえ込み)
③カネック(藤波がレフェリー激突➡️反則勝ち)
《☆マスク》アントニオ・マルティネス製、赤旧ラメ、金ふちどり、頬の模様=無しを着用。


【③】1978年3月14日(火)、銚子市体育館
第7試合
▽45分1本勝負
藤波辰巳(リングアウト勝ち、9分27秒)カネック■


【④】1978年3月17日、大垣スポーツセンター
▽分1本勝負
藤波辰巳(両者KO、10分秒)カネック△


【⑤】1979年5月23日(水)、福島・いわき市競輪場駐車場
第8試合(セミファイナル)
▽MSGシリーズ決勝リーグ戦、45分1本勝負
藤波辰巳(両者リングアウト、13分11秒)カネック△


【⑥】1979年5月30日(水)、大阪府立体育会館
第8試合(セミファイナル)
WWF認定Jr.ヘビー級選手権試合、61分1本勝負
《王者》△藤波辰巳(両者リングアウト、20分36秒)カネック△《挑戦者》
▽5分延長戦
藤波辰巳(時間切れ)カネック△
※藤波が19度目の王座防衛に成功。


【⑦】1979年6月7日(木)、蔵前国技館
第7試合(セミ・ファイナル)
WWF認定Jr.ヘビー級選手権試合、61分1本勝負
《王者》◯藤波辰巳(カネックのダイビング・ボディ・アタックを下からドロップ・キックで迎撃➡️体固め、17分2秒)カネック●《挑戦者》
※藤波が20度目の防衛に成功。
【※】カネック、藤波に初めてのフォール負けを喫する。


【⑧】1981年4月16日(木)、大分・宇佐・四日市セントラルポール広場特設リング
第7試合
▽45分1本勝負
藤波辰巳(回転エビ固め、7分13秒)カネック●


【⑨】1981年4月23日、蔵前国技館
第試合
▽45分1本勝負
□カネック(反則勝ち、9分18秒)藤波辰巳


【⑩】1981年5月1日、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽UWA世界ヘビー級選手権試合、時間無制限3本勝負
《王者》◯カネック(2-1)藤波辰巳●《挑戦者》
①カネック(ブレーン・バスター➡️体固め、9分7秒)
②藤波(回転足折り固め、6分2秒)
③カネック(藤波のドロップキックがレフェリーに誤爆➡️反則勝ち、6分5秒)
※王座防衛に成功。
《☆マスク》プエブラ製、緑旧ラメ(草ラメ)、金ふちどり、頬の模様=火の神を着用。


【⑪】1982年6月18日、蔵前国技館
▽飛竜十番勝負・第4戦、分1本勝負
藤波辰巳(両者リングアウト、11分34秒)カネック△


【⑫】1982年12月3日(金)、福島・いわき市総合体育館
第7試合
藤波辰巳(バック・ドロップ➡️体固め、13分47秒)カネック●


【⑬】1983年5月1日、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽UWA世界ヘビー級選手権、時間無制限3本勝負
《挑戦者》◯藤波辰巳(2-1)カネック●《王者》
①藤波(サイド・スープレックス➡️体固め)
②カネック(ブレーンバスター➡️体固め)
③藤波(カネックのトペを藤波が交わしてレフェリーに誤爆➡️反則勝ち)
※王座転落。藤波が第9代王者となる。


【⑭】1983年6月12日、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス
▽UWA世界ヘビー級選手権、時間無制限3本勝負
《挑戦者》◯カネック(2-1)藤波辰巳●《王者》
①カネック(ジャンピング・エルボー・ドロップ➡️体固め、8分13秒)
②藤波(ブレーン・バスター➡️体固め、2分30秒)
③カネック(藤波のドロップ・キックがレフェリーに誤爆➡️反則勝ち、9分35秒)
※1ヵ月振りに王座奪回。第10代王者になる


【⑮】1984年7月5日、大阪府立体育会館
第8試合(セミ・ファイナル)
WWF認定インター・ヘビー級選手権、60分1本勝負
《王者》◯藤波辰巳(バックドロップ➡️体固め、10分41秒)カネック●《挑戦者》
※藤波が王座防衛。


【⑯】1984年8月15日、パキスタンイスラマバード・アルミン・スポーツ・コントロール・コメディ・スタジアム
第5試合(セミファイナル)
▽45分1本勝負
藤波辰巳(回転足折り固め、12分7秒)カネック●

【⑰】1987年1月15日(木)、君津市体育館
第9試合(セミファイナル)
▽45分1本勝負
藤波辰巳(サソリ固め、7分9秒)カネック●


◎カネックの 5勝 8敗 4分け

☆カネックにまつわる謎エトセトラ①


カネック御用達のマスク・メーカーの代表格といえば言わずもがな アントニオ・マルティネス製とアレハンドロ・ロドリゲス氏の通称プエブラ製になるわけですけども、そのアントニオ・マルティネス製のマスクに関する謎になるのですが


アントニオ・マルティネス製の初期は横タグで、後期は縦タグになっている---ということはマスク・マニアの間では当たり前に認識されてるわけですが、その横タグはいつ・何年までで、縦タグになったのはいつ・何年からなのかがよくわからなくているんですよ。

頬に模様が入ったのは78年3月に初来日した時ですが、まだ頬に模様が無いマスクで、デザインなど見る限り頬に模様の無いマスクのなかでは晩年の…おそらく77年末くらいのものと思われるのですが、そのマスクはすでに縦タグだったんですよ。

後に知り合ったマニアの方のお話しでは、その方が79年5月にカネックが2度目の来日を果たした時にカネックが宿泊してるホテルへ行って自分で交渉してマスクを譲ってもらった経験があるとのことだったのですが、それでそのシリーズでも使用したマスクを(当然ながら頬に模様が入ってるマスク)を購入したらしいのですが、そのマスクは横タグだったと言ってたんですよね。。。


…ん~、縦タグにした以降にアントニオ氏が気分転換や気まぐれでたまに横タグをつけたりしてたのでしょうかね。。。


よく聞く話しでは…当時のタチの悪いマスク・マニアの方が無名レスラーのアントニオ・マルティネス製の横タグのマスクから横タグをはがして、カネックなどの有名レスラーの縦タグのマスクに縫い直して稀少価値をあげて高く売買していたというエピソードを聞いたことがありますけども。。。


ちなみに初期のプエブラ製には喉元の内側にステッチが入っていて、ダブル・ステッチが81年製(まで?)普通のステッチが82&83年製になっている、という認識で間違いありませんでしょうか…?